大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

津家庭裁判所 昭和37年(少)1180号 決定 1963年5月31日

少年 N(昭二〇・七・九生)

主文

この事件について少年を保護処分に付さない。

理由

少年は、昭和三七年四月高校二年生進学直後に神経衰弱症の発病により休学し、三重県南牟婁郡○○町××番地の自宅で療養を続けていたが、同年一一月一八日頃からその病状が急に悪化したので、同月二一日には家人が招いた精神医の診察を受けた結果、翌日精神病院に入院する手筈となつた。ところで少年は、日頃自己の発病は祖母T子(明治四一年七月九日生)の頑迷に由来するものと思い込み、T子に対し不快の念を抱いていた折柄、昭和三七年一一月二二日午後二時前頃自宅表六畳間において祖母T子に対し「僕の一年間の責任をどうしてとつてくれるのだ。」と難詰し、逃げる同女を追つて中央四畳半の間でこれを押えつけ、老人である同女を殴つたり蹴つたりすれば死ぬかも知れないことを承知の上で、右T子の頭部・顔面・胸部等をしやにむに殴打・足蹴する暴行を加え、よつてその頃その場において、同女をして肋骨々折・外傷性蜘蛛膜下出血によりショック死せしめたものである。

しかし少年は、精神分裂症者であり、同症者特有の異常心的状態の下に判示所為を敢行したものであつて、これは刑法第三九条第一項にいう心神喪失者の行為に当るので、尊属殺人罪を構成しない。

次に、ぐ犯性について考察するに、本件直後同日午後五時頃、精神衛生法第三三条に基き、母親の同意の下に精神病院に収容せられ、入院当初は、暴力を振い手に余る有様であつたけれども、その後電気ショック療法、インシュリン療法、特殊薬剤施用等の医療により、一応異常昂奮状態は治つたものの、尚欠陥状態が認められ、社会復帰の見通しが立たない状況にある。かように少年には、多少暴力を振う危険性は存するけれども、その原因は主として資質面に在り、しかもかかる精神分裂症については、相当長期間専門的医療措置を必要とすると考えられる。ところが幸いにも少年は既に上記の如く入院療養中であるから、この際少年を少年法所定の保護処分に付するよりも、このまま同病院において療養を継続させるのが、より望ましい方策であると思料する。

従つて少年法第二三条第二項を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判官 辰巳和男)

参考

尊属殺人被疑事件被疑少年N鑑定書

私は昭和三七年一一月二七日三重県鵜殿警察署司法警察員警部補高田英生より、尊属殺人被疑少年Nに関し、下記事項の鑑定を命ぜられた。

鑑定事項

一、本件の被疑少年Nの犯行当時の精神状況

一、同人の現在の病状及びその後の経過

依つて鑑定人は同日より鑑定に従事し、一件記録を精査すると共に、被疑少年の身柄を昭和三七年一一月二七日より同年一二月一六日迄和歌山県新宮市三輪崎一三八四岩崎病院に鑑定の為留置し、その間少年の精神状態を検診し、同時に○村○子、○村明○、○村秀○の陳述および三重県紀宝町組合立△△中学校及び和歌山県立○○高等学校の回答、証拠品録音テープ一巻を参考として本鑑定書を作成した。

被疑事実の要旨

被疑少年Nは県立○○高等学校に在学中のものであるが、精神異常の為本年四月から休学、自宅療養中のところ、日頃から祖母T子が被疑少年の病気原因を作つたものと誤信し、機会を見て殺害せんと企て、昭和三七年一一月二二日正午頃被害者と口論した際、犯行を決意し、頭部、顔面、胸部等殴打又は足蹴して暴行を加え、死亡せしめたものである。

診察記録

家族歴

母○村○子及び兄○村明○の陳述によると家族歴は次の通りである。

父○村○夫、明治四一年七月九日三重県南牟婁郡鵜殿村に生まれた。性格は温順、まじめであつた。三重師範卒業後教員となり、○中○子と結婚したが、昭和二三年五月四一歳の時自宅近くの山で縊死を遂げた。○夫は当時三重県紀宝町○○の○○小学校長の職に在つたが、その死因については明瞭でなく職責上或は家庭内にも特に自殺する程の原因が認められず、他面精神障碍も少なくとも家人に認められる程度には存在しなかつたとの由、その死亡の真因は不詳である。

母○村○子は明治四一年一〇月二四日、三重県紀宝町成川に生まれた。性格は温順、物静かな性質である。後に前記夫○夫と結婚したが、夫の死後は昭和二四年から○○市の○○職業安定所に勤務し、後同所の係長となり、現在に至つている。少年Nは同胞六人の末子、五男である。同胞の中長男は生後一一日目に腸重積にて死亡、次男明○は○○高等学校卒業後、工学院大学を卒業し、現在東京に在住し、電機関係の会社に技師として勤務している。明○は高校在学中から生徒会の副委員長になつたり、人望も厚く成績も優秀であつた。現在二八歳。

三男秀○は健康にて○○学校卒業後、現在和歌山放送、新宮放送局に勤務している。現在二四歳。

長女○子も健康にて○○学校卒業後、新宮市新宮病院検査室に勤務している。現在二一歳。

母には兄妹なく、夫○夫は婿として中村家に入つた。父及び母方の祖父母の現存するのは父方の祖母であるが、特に遺伝的負因(精神疾患に関する)は認められない。

本事件の被害者たるT子は事件発生の日迄老齢にも拘わらず、元気に家事を手伝い、殊に他の家族が勤務に出た留守を守つていたが、性格は比較的気丈な性格であつたが、特に強情さや頑固さが著明というでもなく、孫達にも祖母として愛情をそそいだ様であるが、他面家事の中心的立場を果していたのも、その家族構成から一応納得しうるものと認められる。

要約すると事件発生前の家族は祖母T子母○子兄秀○姉○子及び少年Nの五名であつた。

本人歴並びに現病歴

被疑少年Nは昭和二〇年七月五日、三重県南牟婁郡紀宝町○○に於て父○村○夫母○村○子の第五男として生まれた。その土地は眼下に熊野川を距てて、和歌山県新宮市を望む温暖な住宅地である。出産は満期安産、順調に成育したが、満二歳一〇ヵ月で父に死別した。然しながら父を失つたことを除いては環境的にも又経済的にも特に不遇ということもなく、幼年期を過した後、同町の成川小学校を卒業、次で組合立○○中学に入学した。

小学校時代には特記すべきことなく、優秀な成績で卒業した。中学校入学後も後に記す如き優秀な成績を示したが、当時の担任教師、岡村康男(三年生担当)及び垣下惺(三年生担当)の説明によると、

「成績はあまり努力せなくとも充分上位を保ち得たが、二年の頃眠れない、眠つても頭にいろいろ浮んで来ると訴えていたことがあり、三年の頃には皆が笑わない様な時に笑つたり、返事等も時々はつきりしない様に感ずる様なことがあつた。」ということである。然しながら少年は学業のみならず、スポーツ方面でも優秀で、郡や県の大会に出場して優勝した等の記録が残されている。担任教師の話でも「人に嫌われる様な性格はなく、只敢て言うと孤独な感じはあつた。」と述べている。

中学時代の学業成績記録を参考に記すると左の如くである。

教科

学年

国語

社会

数学

理科

音楽

図画

工作

保健

体育

職業

家庭

外国語

一年

二年

三年

右の如く中学は一応優秀な成績で卒業し、同時に近接の隣県和歌山県立○○高等学校に合格入学した。

高等学校に於ては入学時比較的上位の成績であつたにも拘らず、その後成績は低下し、一年終了時の成績は中位以下を示す様になつた。

このことについて中学時代の担任教師は「中学で比較的努力しないで上位を保ち得た生徒が高校に入つても頭の切替が出来ずに居り、その為高校の中で成績が低下することは屡々認められることだが、更に本少年に於ては生来の理科好みの性格と実兄達の影響であろうか、アマチュア無線に熱中したらしく、熊野大橋の上で無線機をもつて通信を楽んでいたことを見かけたことがあるが、学業成績の低下も此が大きな原因であろうと認められる。」と述べているのは少年を熟知していた教育者の言としては充分肯ける説明と考えられる。

然るに一年生終了後少年は無事二年に進学したが、新学期開始後約三日出席した後学校を欠席するので、家庭訪問すると「神経衰弱なので休業したい、とのことで昭和三七年五月一日から休学した」と高校二年の担任教師田端秀昭は陳述し、更に加えて「私(教師)自身は別にそれ程異常がある様に思えなかつた」と述べている。

当時学校当局に対しは、新宮市薬師町医師松橋正格による次の如き本少年に関する診断書がその家族から提出されている。

診断書

一、病名 神経衰弱症

備考 右疾病により六ヵ月静養加療を要す。

それ以来本少年は自宅で静養を続けることになつたが、当時の状況について母○子陳述によると「本人が『勉強しても頭に入らない』と訴えるので、無理をさしてはと考えて松橋医師に相談した所、医師が『本人もそう言うなら、しばらく学校を休ませて思う様にさせたらよい』とのことで休学さしたと述べている。更に又母の説明によるとその後の本人の現在迄の生活態度については、昼間は他の家族が出勤し、祖母と二人の日が多かつたが、別に特に異様な行動を示すでもなく、ハム(アマチュア無線)に凝つたり、読書したりして日を過したとのことであり、又高校の担任教師の田端秀昭の陳述によると、「一時夏頃復学したいとの希望が本人よりあつたが出席日数の問題もあり、結局翌年三月迄休学することになつた訳です」と述べて居り、又約十年前から東京に在住し、年一乃至二回少年宅に帰省するという兄明○の陳述によると「母○子が約一ヵ月前に所用で上京したが、その時私(明○)と種々話した折、話がNのことに及んだが、母はNはこの頃もうすつかりよくなつて来たのでうれしい。兄も居るのだから来春は東京の高校に転校させようと思つている、とのことであつたので、二人で種々東京の高等学校のことを調べたり、話し合つたりして喜んだ位です」と述べている。

以上のことを総合して考えるに、少なくとも事件発生の約一ヵ月位前迄の本少年の精神状態は多少の所謂神経衰弱様状態はあつたとしても、強い昂奮、粗暴な行動を伴う様な著明な異常行動は認め難かつたものと推察される。

然るに兄秀○の陳述によると「事件前十日乃至一週間位前からNは家人の誰彼を集めては説教めいた議論を吹つかける様になり、その内容も抽象的なことや、答え様のない様なことが多くて皆を困らす様になつた」と述べている。

このことは証拠品録音テープにたまたま少年と被害者が言い争つている記録があり、その録音テープについては母○子や兄秀○が「事件前一週間位に録音しているのを聞いたことがある」と陳述している点より恐らく事件前一週間前後の頃のものと思われるが、その記録を再録してみると、少年が抽象的な捉み所のない、返答に誰でも困惑する様な質問を祖母に対して行なつていることが聴取せられる。その内容の一部を記載すると、

少年「はつきりもの言え」

祖母「何遍言うても一緒や」

少年「おばさんの考えどんなのや言え」

祖母「何を考えよて言うのか……」(泣声にて)

少年「一寸ききたいことがある、おばあさんいう人間あるんかよ」

少年「おばあさんの考言え」

祖母「何を考えるのよ、一生けんめい働いたらええがよ」

少年「そしたら畜生、おばあさんの考ええんかよ、正しんかよ、僕はおばあさんの考聞きたいんやよ」

祖母「もうどうか放つておいてくれ」

少年「そしたらおばあさんよ、僕の気に入る様なこと言うてくれて言つたか」(昂奮して)

祖母「責められるとしか思えん」

少年「僕は責めやるか、(嘲笑する様に)いくら言うても仕方ないて言うたね」

少年「おばあさん何で生きてるんや、何の為生きているんや」

祖母「もう年よりやさかい、今迄やつたら六〇で一回すんでいる。世間のこと出来んさかい家のことしてるのやないかよ」

少年「死んでもかまわん、僕等でも死のうと思つたら死ねるんやで」

少年「おばあさんが何の為に生きてるんかいのと言うたて僕は知らん」

少年「僕は立派な意見言うてくれて言うたか」

以上が少年の本人歴及び現病歴の大要である。

事件発生前後の少年の精神状況

本鑑定人は偶々事件発生の前夜被疑少年Nの家人より一医師として往診を依頼され、少年を診察する機会に遭遇した。当時の状況については、既に本鑑定人は少年の主治医の立場上、鑑定命令を受ける以前に、三重県南牟婁郡鵜殿警察署に於て述べた供述書の中にも記録されているが、右供述内容及び本鑑定人が少年の主治医として記録している和歌山県新宮市三輪崎岩崎病院の診療録を中心として、事件前後の精神状況を現在症を記述する前に記載することは、本少年の精神状況を説明する上に適当であろうと思われる。

一、昭和三七年一一月二一日夜七時頃、少年宅家人より電話により往診の依頼が岩崎病院に対してなされた。往診依頼の理由は「病人(N)が家人に対して、説教めいたことをくどくどと述べて家人を困らす」ということであつた。因みに本鑑定人はそれ以前にN少年は勿論、他の家族に対しても医師として診察を行なつたことはない。

右依頼により本鑑定人は医師として同人宅を訪ね、少年の母○子及び兄秀○より少年の病歴として「本年四月から神経衰弱で○○高校を休学しているが、最近急に昂奮を示す様になり、乱暴はしないが、家人に対して自分が休学して一年遊んだのは家の者の責任だこれをどうしてくれる等と文句を言い、今日もあまりしつこく言うので、先生にお願いした」との説明をきいた後、本人を問診した。

少年は医師と家人が話しをする間、気分もやや静まつて祖母T子に肩をもんでもらつていると言うことであつた。以下問診時の状況を記すると次の如くである。

礼節に欠けた、やや粗暴と思われる動作で座敷に来たり、医師の前に乱暴な動作で腰を掛ける。

医師「N君ですね」

少年「ああ」

医師「どこかわるいの」

少年「母さんを診察してやつてよ」

医師「お母さんはどこがわるいの」

少年「おかしいんや」

医師「どんな具合に」

少年「わかつてるやろう」

医師「よく分らないのだけどね。」

少年「そんならいいわ、わかつてるやろう」

医師「君自身はどう、夜よく眠れるの」

少年「…………」

医師「眠れないこともあるの」

少年「分かつてるやろう」

話の途中急に着ていたセーターを引張つて、半分脱いだ様にしてそれで自身の顔をかくし、大きな溜息を何回もつく、以下はセーターで顔をかくしたままの応答。

医師「どうかしたの」

少年「しんどいんや、つかれてんのや」

医師「N君はなぜ学校へ行かないの」

少年「みんな困るやろう、面白くないし、それに家の人が行けと言うたんや、わしよりお母さんを診てやつてよ、わしは頭がどうもない」

医師「何が面白くないの」

少年「妙な顔してたら皆困るやろう」

少年「皆見るんや」

医師「テレビ等の中に出てくる人が君のことを言つたり、笑つたりしない」

少年「そんなことも一寸は」

医師「自分の考えることが人に知られてしまうの」

少年「分つてるやろう、しんどい」

少年は漸次不機嫌になり、拒絶的態度が見られたので少年との応答は打切り、少年を退室せしめた後、家人に少年の病状は単なる神経衰弱症でなくて、恐らく精神分裂症と考えられるので、入院加療の要あることを述べて置いた。少年には無意味な剌戟をさける為更に詳しい心理検査を行なう為来院する様指示しておいた。

当夜は前述の如く拒絶的傾向は多少認められ、同時に思考連合の障碍は認められたが、昂奮はさ程認められず、妄想も明確に把握し得なかつた。

二、次に本鑑定人が医師として第二回目の診察をする機会を得たのは、祖母T子が既に殺害された後即ち昭和三七年一一月二二日午後四時前であつた。これは同日朝少年宅から兄秀○が「昨夜の先生の指示に従つて本日少年を入院させたいが、家人では病院にうまく少年を同行さし得ないので迎えに来て欲しい」との依頼があり、それにもとづいて約束の時間(午後二時三〇分)に少し遅れて往診したものである。

この時既に祖母の死体が発見され、現場に於ては警察官が出動して死因や現場の状況の調査が行なわれていたが、少年は被害者の倒れている室から、二、三室離れた部屋でテープレコーダーを音高くならし、恰も事件のことは全く関知しないが如き様子で在室していた。本鑑定人は少年の診察に先立ち、事件が発生している状況上、一応出動中の警察官に医師として少年を診察すること及び家族の依頼により少年を病院に入院せしめたき旨説明し、了解を得たので少年の居室に単独で入つた。

少年は室の略中央に蒲団を敷き、坐居、テープレコーダーを鳴らし録音された古典音楽(歌劇ウイリヤムテル)に聴き入つており、医師が入室すると一べつを与え更に前記態度を続ける。表情はやや硬く、拒絶的態度が見られ、しばらく緘黙状態が続いた後、次の問診を行なつた。その内容を記載すると、

医師「夕べは眠れたの」

少年「ふん……」

少年「分つてるやろう」

医師「今朝は何時に起きたの」

少年「…………」

医師「食事は」

しかめ顔をしたり、又笑いかける様な顔をしたりしながら考える風に

少年「夕べ沢山食べたから、ああ、すしをね」

その間質問には一応応ずるが自分から話かけようとしない。

医師「おばあさんと一緒に食べたの」

少年「…………」

その時急に医師の方を向き、

少年「先生ええもの聞かしてやろうか」

医師「何を聞かしてくれるの」

少年はその時答えずテープレコーダーを操作し、前記本人歴末尾に記載した録音テープを鳴らし始めた。その間少年は時々鋭い表情を示すが、全般的には硬い表情をしつつ、何か興味深い録音をきく様な態度を示し、時々冷やかな笑を示す様な態度を続けた。問診終了後出動中の警察官の了解を得、少年を病院に一精神障碍者として入院させる為に少年宅から出ようとした所「解剖すれば分かる」「自由だぞ」「人権……」「責任をとつてくれるか」等と大声で叫び、鑑定人が「責任をもつよ、心配するな」と言うと急に素直になり車に乗つた。車中やや感情のたかまりを示す様な表情を示したが、緘黙を続けた。

三、昭和三七年一一月二二日午後五時頃少年は精神衛生法第三三条の規定に基づき、和歌山県新宮市三輪崎私立岩崎病院に入院させたが、入院当日、及び当夜更に鑑定留置が開始せられた同年同月二七日迄の少年の精神状況は次の如くである。

入院直後より少年は全般的に強い精神運動昂奮が見られ、動作態度に落着なく、自分のベッドに安臥せず、看護人詰所に坐つて、机にもたれ、頭をかかえたり、ああと大きい溜息を示したりし、談話にも興味を示さず、対話の内容は不統一で且つ断片的であり思路整然としない。

当夜の重症看護記録に少年と宿直看護人との対話を見ると

看護人(以下看)「N君家を出る時は解剖とか言いましたね」

少年「死んだんぢやなかつたのか」

看「誰が」

少年「その人が頭が狂つてるだろうと思つて、要するに人ではない、気短いとはいえやんし、思えばいいということかいな」

看「それはどういう意味」

少年「わかつたのにあやまらん……俺を大切にしてくれないか、人間だつたらもつと人を大切にする」

…中略…

看「おばあさんと喧嘩したの」

少年「おばあさんに卒直に意見を言うてくれと言つたら、そこが僕には分らない。卒直な意見を言う時は、僕には相当熱が入つているわけだ。向うがどういう風に言つたかというと、何で親を困らすんだ。僕は困らない。おばあちやんは頭がこちこち」

夜一一頃になつて漸く看護者に指示されて就眠した。翌一一月二三日はやや落ちつきを取戻した様な表情を示し、「おばあちやんは悪魔鬼だよ、死んだんです。本当に悪い様だつたら、水をくれといわんでよかつたのに」とか「全々後悔していない。あの死に方を見れば分る」等と話すようになつた。

然し同日午後突然再び強い精神運動昂奮に陥り、衝動的に看護人詰所に入り、看護者制止には却つて攻撃的態度を示すようになつた。その後は思考進行は漸次支離滅裂となり、纒りのない断片的言語を大声でわめき、時に声高く笑つたりする様になり、夜間に至つて昂奮は一時減退したが、尚強い精神運動不安が全般的に認められた。

同年同月二四日、午前中少年は比較的爽快とさえ思はれる気分を示し、主治医鑑定人に話をしたいと述べ、その応答も昨日に比べて思路にまとまりを示した。その時の少年の対話を診療録より抜粋すると、

「この間の夜、先生の帰つた後話をした。院長先生がどんな話をしたか言つてくれない。自分は異常だと思われていると思い、うら切られたと思つた。その翌日朝兄貴に兄もなんと人間性がないのだろう、弟の言うこと位きいて欲しいと言つた。兄貴も名古屋から帰つて人間が変つた。兄も姉も出て行つて残るはばあさん一人になつた。それで前にテープをとつていたのをおばあさんに聞かせてやろうと思うたら、おばあさんは分つた様なふりをした。おばあさんに僕の一年間の責任をどうしてとつてくれるのだと言つた。そしたらおばあさんが逃げた。それでおばあさんを追い付いて捉えた。謝つてくれたら良いと言つたが、人間性がないというか、鬼ばばというか、責めても悪かつたというが、頭は下げるが、僕は頭を上げて文句いわしてくれといつた。何とずるかしこい、手のすき間からのぞいた。逃げたから押えつけた。逃げられたらたまらんから。そしたら死んでもよいから水一杯くれという。水をもつて来たが、考えてみると、水をのます必要なんかない、死んでわびるのなら、僕の胸にとびついてくれたらよい。僕はそこで頭へ来て、この水は青酸カリが入つている。飲むと同時に死ぬんだといつた。そしたら神様、仏様といい出した。何と動物的なあやまちをあやまらん、よけいに飛びついた。やつぱり鬼ばばだつたんでしよう。今迄マーチャンと呼んでいたのをNさん等と他人行儀なことをいう。ばたばたと暴れた、うつかりすると逃げられる位、部屋をしめ切つて押えつけた。それでもまだばたばたする鬼ですね。それでもまだもがきやる改善の見込みない。これは鬼だ。こんなものに毎日マーチャン、マーチャンといわれたらかなわん。するとばたくらん様になり、喉がぐうぐう鳴る。大分落着いたと思つたら手の色が変つていた。死んだと思つた。僕は当然こうならないと仕方がない、人間性のないものは仕方がない。僕は当然と思う。僕は跡片付けの必要もないと思うので、自分の部屋に引き上げた。犬を見た。犬はつまらなさそうにしている。もう一つの犬はじつと見つめていた。やつぱり僕は正しかつたと思つた。兄貴が帰つて来てがやがやいい出した。僕は見つけたなあと思つた。けど兄貴も今迄の態度があるから、兄さんもばあさんは人間性がないから驚かないだろうと思つた。」

同月同日午後少年の兄明○が少年と面接した際も兄が少年に向つて「おばあさんが亡くなつたので今東京から帰つてね」と話しかけると、少年は顔面を昂奮させて「おばあさんなんて」と如何にも腹立たしそうに吐き捨てるように言い、又兄が「やはり人間一人死ぬということは」と話すと「人間なんて、あの顔見たか、死顔見たか、動物や」と昂奮して話す等のことがあつた。

その後少年は毎日強い精神運動を伴う緊張症、昂奮型状態と、比較的静かな精神状況とが入り混り、昂奮時には支離滅裂な言葉を大声でわめき、他の同室患者に対して「死なないと治らんものが沢山いる、ここにも、あそこにも、こいつもあいつもそうや」等恥辱的言辞を平然と弄したり、又比較的落着いた時には「この女の子(女子患者)は皆僕が津○さんと僕が知つていると思つて話しかけて来ん、勘がええ」等と語つたりした。因みに津○さんとは少年の隣家の少女で少年とは同年輩の為二、三回話しをしたことがある程度の知人である。

以上が大略精神鑑定開始迄の少年の言動の大要である。

現在症

被疑少年は昭和三七年一一月二七日から同年一二月一六日迄、和歌山県新宮市岩崎病院第一病棟に鑑定の為留置し、その間行動をつぶさに観察し、問診、心理テストを施行し、その精神状態及び身体所見を検査した。

一、身体所見

身長一六三・五糎、体重五六瓩、胸囲九〇糎、体型は細長型と闘士型の中間型、骨格、栄養状態は中等度である。咽頭、頸部に異常はない。胸部では心界心音正常、肺野も打診上異常を認めない。腹部は平坦、腫瘤圧痛部を認めず、肝脾をふれない。血液梅毒反応陰性、その他内科的に異常を認めず、瞳孔は正円、左右等大で対光反射、輻輳反射ともに異常を示さない。眼球運動も正常、眼震はない。各腱反射正常。その他神経病学的所見に特記すべき異常を認めない。

二、精神所見

鑑定開始当時の所見

意識清明なるも、態度は全体として落着なく、入室して指示された椅子にすわるが、そわそわしてあちこち眺め廻す。顔貌表情も不自然で、硬い表情を示すかと思えば、急に又笑顔を作つて面白そうな表情をしたり、又時にはしかめ顔を示す。全体としては奇矯な感じを与える。

問診中もしばしば立上つて窓の外を見たり、洗面所の側に行つて顔を突然洗つたりする。

質問に対しては応答するが、その態度は表面的で、やや当意即答的である。質問中に時々「僕は津○康○さんと結婚する。僕はそう決めてある」と言つて悪戯ぽく笑つたりする。「津○康○さんに面会に来てもらつてくれ」等と突然言い出し、鑑定人が来てくれそうかと質問すると「来てくれんやろう」と平然と答えて、何等こだわらず次の話題を求めるといつた様子が見られる。

話が祖母のことにふれると「やつぱりやつたな、悪いとまあ、思うけど、一人死んだらもうええわ、今でも交通事故でも何人も死んでる、火事でもね」等と笑い話の如き口調で語り、自己の肉身を失つたものの悲嘆の感情、まして自分が殺害したという後悔の念を毫も認めがたく、感動的意志疎通性は認め難い。これ等問診中の言葉や動作に感情の両価性は明らかに認められる。幻覚としては幻聴、幻視、幻臭等等は否定するも「皆が自分に○子さんがあることを知つていて話しかけない。勘が良い。」等察知妄想を認める。

祖母を殺害した前後のことを敢て尋ねると、別に苦悩や後悔の表情は全くなく、恰もスポーツを楽しむように「ふん、それでもう目茶苦茶肩を引張つたら、ポキット折れた。手が確か折れた筈や」等と話したり、鑑定人が「殺す気持はあつたの、おばあさんが鬼ばばやと言つていたが、何時からなの」と問うと、「ずつと小さい時から鬼ばばやと思つていた。ずつと昔からそう思つていたのでしよう」と追想妄想と思われる答をしたり、又「只押えただけや、逃げられた叶わんから、そしたら死んだんや、先生犬は本能的なものだからよく解るんですね、僕の顔を見てうれしそうにした。僕は正しかつたと思つた」等の妄想解釈、又自己の休学した責任は家族だと誤信し、その説明を求めると理由は述べられず、不統一な論理で飽迄その主張を続け、自己の疾病についての認識を全く欠く等、被害妄想と共に病識の欠如と移他症等の種々病的体験が認められる。

心理テストとしてロールシャッハテストを行なつたが、その結果を心理学的に解釈すると、知能は比較的高く、然しながら創造的、生産的思考に欠け、分析的、具体的に思考する態度は認められず、直観的、漠然とした綜合的な思考が多い。社会的知能に乏しく、人の動きについても関心度うすく、洞察、理解を欠いた直接的な欲求充足であり、内的な衝動性は十分に統合されていない。

人間関係は表面的、未分化の様想を呈する。常に不安を抱き易く思われ、情動的不安定は爆発衝動的行為をなしうる面が顕著に伺われる。又クレペリン内田の精神作業検査は略a”型を示すが、毎分ごとの差がはげしく、作業昂奮の働きにむらが強く、感情の不安定が著明に認められる。以上の二心理検査は少年の精神状態が鑑定期間中最も安定を得た時期を選んで試みたものである。

その後の病状経過

鑑定開始後現在に至る病状の経過を見るに、少年が鑑定開始後甚だ激しい精神運動昂奮を示す為、最初カクテリンHの筋肉内注射、続いてクロールプロマジンの大量投与により治療を加えたが、日を重ねるに従い約一週間後激しい昂奮は漸次静まりを見せたが、思考察知、被害念慮、移他症、妄想解釈等の病的体験は去らず、同時に思考内容は極めて奇異、独特の色彩を示し、感情の両価性と共に奇矯且つ衒奇的なる病像を形成している。従つて日常の動作も衝動的、発作的であり、病識を欠如するにも拘らず、屡々かかる病者に認められる退院の強い要求をするでもなく、表面的にはむしろ爽快な気分さえ見せるような生活を送つているように見うけた。

然しながら症状の安定に伴い、前記特殊精神科薬物療法剤をやや減量するや、一二月一四日頃より再び強い緊張病性昂奮を示し、思考は支離滅裂で会話は全く了解不能であり、衝動的行為が著明になり、現在鑑定終了時かかる状態が継続している。

総括と説明

一、精神分裂症なる疾患はその病像により、単一型、破瓜型、緊張型(更に分類して昂奮型及び混迷型)妄想型の四型に分類せられるが、多くは青年期に発病し、放置すれば比較的早期に特有の痴呆所謂分裂性痴呆状態に陥る疾病で、主たる症候は精神医学の泰斗ブロイラーによれば一般の知覚、領解、記憶には大なる異常なく、一見は常人と大差なき如く見える場合もあるが、感情、観念、意志の統一に乏しく、著明なる人格の障碍を示すもので基本症状としては連合過程の障碍と自閉性の思考と行動を随伴症状として幻覚、妄想、緊張性姿勢等を挙げている。

二、翻つて本被疑少年の現在の状態をその本人歴及び事件前後の言動と共に併せ考え、精神医学上重要な事と考慮されることを要約すると、

家族歴及び本人歴においては、

(イ) 実父が原因不明の自殺を遂げていること。

(ロ) 中学二、三年頃不眠等の軽い精神科的症状を訴えたこと。

(ハ) 高校一年入学後成績低下し、二年進学と同時に「神経衰弱症」なる診断のもとに休学状態に入つたこと。

(ニ) その後一般に著明なる症状を示さなかつたが、最近に至つて家族に抽象的な解答に困惑するような質問を浴びせ、昂奮して攻撃的態度を示すようになつたこと。

(ホ) 事件前後の精神状況において被害者T子と少年との間に多少葛藤ある人間関係はあつたとしても、少年のそれ迄の知能と人格から見て、又少年以外の陳述者の陳述から見て、少なくとも正常な心理状態においては到底遂行し得ないような行動を平然として行い、それが遂行された後においても反省、後悔等の心情が全く認められないこと。等の数点が挙げられ、その犯行動機、犯行の遂行状況及び犯行後の心理状態を精神医学的に検討するに際して、既に本人歴、犯行前後の少年の精神状況並びに現在症及びその後の病状経過を綜合して考慮する時、そこに認められる各種の異常体験即ち思考察知、移他症、被害念慮や著明なる感情の両価性、屡々認められる強い精神運動昂奮と衝動的な抑制を知らない行為等のみが少年の行動を独り説明しうるものと考える。

かかる諸症状は前述した精神分裂症に屡々認められるもので、他の精神疾患には認め難く、少年が有する奇矯なる他の諸症状と併せ考える時、本少年は人格的には精神分裂症者であり、又犯行時の心理状態も精神分裂症の症状に強く支配されていたものと考えられる。

三、抑々精神医学殊に司法精神医学において、精神分裂症者はその人格より心神喪失者とし、その行為は心神喪失者の行為と見做すを定説としているが、さらに本症例において祖母殺害の行為そのものが直接本少年の有する異常体験と関連する点からしても心神喪失状態において行なわれた犯行と考えるのが至当であろう。

鑑定主文

一、被疑少年Nは精神分裂症者であり、犯行時の精神状況は精神分裂症者特有の異常心的状態にあり、法家の所謂心神喪失状況にあつた。

二、同少年の病状及びその後の経過を見るに、病状は著明なる精神分裂症候群を示し、殊に現在尚はげしい精神運動昂奮の襲来を屡々認める。

右の通り鑑定する。

昭和三七年一二月一六日

鑑定人和歌山県新宮市三輪崎一三八四

岩崎病院長

医学博士岩崎正夫<印>

本鑑定に要したる日数は昭和三七年一一月二七日より同年一二月一六日迄の二〇日間である。

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